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見えない「メガネ」と見えてくる社会 (前編)

天羽 礼彩

〜「メガネ」の比喩で伝える想いと軌跡〜 
あなたのメガネ、本当に透明ですか?



◆もし、社会に「メガネ」という概念がなかったら——

「見えにくさ」を抱えていても、それが社会で理解されていないとしたら──。
それは道具の有無だけでなく、「理解」という空気がまだ存在していない社会の話です。

「メガネ」という存在をはじめてこの世界に生み出したかたは、どんな思いだったでしょうか。

もしかしたら、驚かれたり、不審な目を向けられたかもしれません。
必要だとわかっていても「格好悪い」「恥ずかしい」と否定されたかもしれません。
あるいは「自分には必要ない」「そんなの甘えだ」と突き放されることもあったでしょう。

それでもそのかたは、見えない世界を少しでも見えるようにするために道具を生み出しました。
そして今ではメガネは当たり前の道具となり、ファッションの一部にすらなっています。

メガネという道具は、レンズとフレームだけでは成り立ちません。
「これは見えにくさを補うための道具である」と社会全体が理解しているからこそ、私たちはそれをかけて学校へ行き、働き、暮らすことができる。

つまり今は、補助具があることで社会の中で自然に生きられる時代となり、視力の弱さは個性のひとつとして自然に受け入れられるようになったのです。


◆世界は誤解と偏見でできている

外見で見分けられない障害や特性は、誤解・無理解の対象になりやすいものです。
私たちがかけている「色眼鏡」に気づかないと、その人本来の姿が見えなくなってしまいます。

「色眼鏡で見る」という言葉があります。
これは相手の事情や背景を知らずに、勝手な印象や先入観でその人を判断してしまう偏見のことです。

私たちが日々触れているニュースやSNS、教科書や本の中で描かれる「困っている人々」のイメージは、とても限られています。

「障害者=かわいそう、できない人」という見方
「優しくしなきゃ」という義務感
「努力すればできるはず」という理想化
「健常者=配慮する側」という根深い思い込み
——これらすべてが「色のついたメガネ」です。

視力が弱いかたがメガネをかけるように、私たちは誰もが自分なりの視点や価値観、経験という「レンズ」を通して社会を見ています。

それ自体は悪いことではありません。
けれどそれは、相手を知らないままにつくられた「見え方の癖」であり、思い込みであることも多いのです。

自分がかけているレンズの色に気づかないままでいると、見えない現実を“見たつもり”になったり、他者の人生を“理解したつもり”になってしまい、本当の姿が見えなくなってしまいます。

たとえば「障害者」と聞いたとき、どんな姿が思い浮かぶでしょうか?
車椅子に乗っているかた、白杖を持っているかた、補聴器をつけているかた──
そうした「目に見える特徴」ばかりを、支援や配慮の対象だと思い込んでいないでしょうか。

けれど、社会には“見えない障害”も“わかりにくい困難”も、数え切れないほど存在しています。
たとえば痛みや疲労、脳や神経の情報の受け取りかたの違いなど、その多くは外見には現れません。

また、「車椅子=足が不自由なかた」と思っていませんか?
実際には、転倒リスクがあるかた、体幹が不安定なかた、極度の疲労や体調変動により少ししか歩けないかた、あるいは頭を起こしているだけで体調が悪化してしまう疾患のかたなど、理由はさまざまです。

たとえば外見上“普通”に見えるかたが、優先駐車場に車を停めていたとします。
実はそのかたは人工関節だったり、心臓に疾患があったり、広所恐怖症を抱えていたりするかもしれません。

メモを取らないかたが「やる気がない」と誤解されたり、屋内でサングラスや帽子を着用しているかたやお礼を言えないかたが「失礼だ」と言われたり——。
外見からは見えない背景や困難は、今もなお知らずにかけた色眼鏡によって誤解され続けています。

そしてその色眼鏡は偏見や無理解の温床となり、知らず知らずのうちに人を傷つけ、排除し、孤立させてしまうのです。
メガネを知らなかった社会が視力の弱いかたに「できない」と決めつけていたように、色眼鏡をかけた社会も、誰かの「できる」を曇らせています。

メガネが必要なかたがその存在を否定されたり、逆に色眼鏡をかけた誰かが無意識に誰かを傷つけたり。
そんな複雑なレンズが重なり合った「メガネの世界」に、私たちは生きています。

だからこそ、まず私たちができることは、自分のメガネに気づくことです。

なにが見えていて、なにを見逃しているのか。
その視界は、本当にありのままなのか。
メガネがあっても、見えない世界がある。
メガネがないから、誤解される現実がある。

そして——
色眼鏡のせいで、互いに見失っている尊厳や可能性が、きっとある。

私たちがお互いにまっすぐ目を合わせ、耳を傾けようとするとき、「メガネを外す」という選択肢や「他のレンズを試してみる」柔軟さが生まれます。

私はこの色眼鏡の存在を可視化し、一人ひとりが自分のレンズの色に気づくきっかけをつくりたいと思っています。

ユニバーサルデザインや合理的配慮は、単に誰かのための“特別な対応”ではありません。
すべての方々が“自分ごと”として使える社会の設計図です。
そこには“上から目線の配慮”も“思い込みの親切”も必要ありません。

むしろ大切なのは、見落とされてきた当事者の声。
無意識に引かれてきた「できる/できない」のライン。
そういった“見えない偏見”を一枚ずつ外していくことが、私の目指す社会への第一歩になります。

私のように外からは見えにくい障害や困難を抱える立場にいると、「伝えたのに伝わらない」「説明したのに理解されない」ことが日常的に起こります。
それは言葉の問題ではなく、受け手の前提が違うからです。

常識、経験、当たり前の基準——
そのズレが、伝わらない壁を生んでいます。

だから私はただ情報を伝えるのではなく、その前提ごと問い直す発信を心がけています。
見えない障害も、気づかない偏見も、すべては「視点のズレ」から始まっているからです。

社会には、様々なレンズが必要です。
誰かにとっての“当たり前”が、別の誰かにとっては“壁”になる。
だからこそその視点のズレを知り、少しずつ修正していくこと——
それこそが、障害や困難を特別扱いするのではなく、すべての方々が心地よく過ごせる社会をつくるための静かな基礎工事だと思うのです。

私が目指すのは、それぞれの見え方を否定するのではなく、「困っているから助ける」のでもなく、
「どうすれば、もっと見えるようになる?」を一緒に考え「共に工夫して生きる」社会です。

一人ひとりに合った見え方や工夫が、自然に尊重されること。
それは障害の有無を超えて、すべての方々にとって暮らしやすい未来につながると、私は信じています。

だからこそ、まずは問いかけたいのです。
あなたがかけているそのメガネ、本当に透明ですか?



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